一時期、「被害者なき犯罪」という概念をめぐって相当激しい議論が世界中で戦わされていました。
Wikipediaから抜粋引用すると

1965年にアメリカのエドウィン・シャーにより提案された「被害者のいない(ように見える)犯罪」を指す犯罪学・市民権上の概念。

売春、賭博、麻薬、堕胎、ポルノ、自殺、不法移民、武器の所持などが典型例として挙げられる。

個人の自由を広く認める立場や、この類の活動の違法化は裏社会の温床となり、二次犯罪が多発して社会的被害が大きいとする立場から、これを非犯罪化ないし非刑罰化すべきである旨の主張がなされている。

欧州では公娼制度を復活させた国もある。

ヨーロッパのいくつかの国では、麻薬中毒者に医師の監視の下、麻薬を提供するクリニックが実験的に運営されている。


そして、衆議院の解散以来、日本のマスメディアは「清純派に仕立てられてきた女性タレント」の薬物使用事件一色に塗りつぶされてきました。
しかし、選挙前最後の週末に彼女が起訴され一段落。

雇用のさらなる悪化だけが、選挙に関係がありそうな唯一のニュース。
結局、夏祭りや盆踊りで人々と握手してる自民党のオッサン達の哀れな姿を連日見せられただけ。

日本人ってやっぱり利口なんですね。

ところで、本物の「ドブ板」ったまだあるんですか?
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by convenientF | 2009-08-29 16:10
8月18日からgakis-roomさんの「楽餓鬼」(http://gakisroom.exblog.jp/)で、最近10年余りの日本人の所得の様々な切り口での統計数値が紹介されています。

所得だけをみれば「ジリ貧」です。国単位の経済規模では中国に追い抜かれそうです。しかし人口が違うので一人当たりではまだ抜かれることはないでしょう。

問題は、一人当たりの所得がジワジワ減り続けると生活水準はどうなるか、です。

”武士”を自認し、愛国、国防を叫び、人々を国にとっての生存価値で分類する方々は「武士は食わねど高楊枝」暮らしをお続けになるんでしょうけど、”町人”のアタシャ嫌ですね。他人を誑かしてでも町人らしい派手な身形で、旨い肴で旨い酒を飲みたい。

だけど、町人同士が誑かし合いをやったって決着は付かないでしょう。

やっぱり武士をカモらなくっちゃ。
武士からゼニを搾り取らなくっちゃ。
それが江戸の昔からの町人魂!


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by convenientF | 2009-08-21 15:29
 当時の神恵内村の人口は3,000人と教えられたが,ラジオは村役場と郵便局に置かれているのを含めて数台しかなかった。だから村人のほとんどは,岩内から昼頃運ばれてくる新聞を読むまで「新型爆弾」のことを知らなかったはずだ。
 『北海道新聞』が広島の原爆をどのように扱っていたかは記憶していない。しかし相当大勢の村人が父のところにやってきたことは覚えている。
 その頃の神恵内村としては,明治政府の高級官僚の息子で神戸商業を卒業し,大阪で貿易会社の重役になった父は大変なインテリに思えたようだ。朔郎さんなら教えてくれると期待したのだろう。
 もちろん父が説明できるわけがない。「わからん」で通していた。だが村の人たちはこれで敗戦が決まったと感じたようだった。大阪などの都会との大きな違いだと思ったのは,駐在の警察官も一緒になって「これで戦争は終わりだ」とおおっぴらに話していたことである。
 ソ連の参戦はもっと早くわかったと言われている。村の沖合に軍艦が並び,誰かが「ソ連の軍艦だ」と叫んだそうだ。真偽のほどは知らない。
 そして8月15日,昼に大事な放送があるのでラジオを聞かせてやってくれと役場から言ってきた。実はその日,父が小さいときから秘密にしてきたアワビの漁場を教えてくれることになっていたのだが,それは大事な放送が終わってからということになった。
 家の前の道路一杯に人々が集まった。しかし電波が弱く,少し離れている人には何も聞こえない。その上,詔勅の日本語自体がたいていの村人たちには難しすぎた。父に説明を求めた。父はかいつまんで説明し,「とにかく戦争は終わったということや」と締めくくった。60年に近い父との生活でこの時ほど明るい父の表情はあまり記憶がない。

さらに説明を求めたり,泣き叫んだりしている人々を振り向きもせず,父と私は魚籠(ビク)とやす(魚介類を突き刺す漁具)を手に秘密の入り江に向かった。
エゾアワビは7~8センチあれば大物とされるが,この日は15センチぐらいのが獲れた。

 艦砲射撃で破壊された神恵内国民学校の跡を父と見に行ったのが8月15日より前だったかどうかは覚えていない。学校があった場所は港の北側、海から見て左側にある小山の上である。
 港と集落は左右から突き出している岬の陰に隠れている。だから艦砲射撃でねらえる建物としては小山の頂上にある学校しかなかったと想像できる。そのため学校だけが砲撃を受け,集落は機銃掃射を浴びるだけで済んだのかもしれない。
 攻撃の際に村の人々が避難した場所へも連れて行かれた。集落を包み込むような形の山並みの裏側にある谷間だった。かなり大きな樹木が生い茂っているから海からも上空からも人々は見えない。そのおかげか,人的被害はなかったらしい。
 それにしても,スルメイカとカレイを捕って細々と暮らしているだけの小さな漁村を何のために攻撃したのか。軍需工場があるわけでもなければ,軍の艦船が停泊するような港でもない。攻撃する理由が見当たらない。
 大阪ではもちろん,偵察機しか飛んでこない金沢でさえも一応灯火管制が行われていて,電灯の笠に黒い布を巻いていた。しかし艦砲射撃や機銃掃射の実害を受けている岩内や神恵内ではどの家でも電灯に布を巻いたりしていなかったのは,いま思うと面白い。
 例の「スパイ密告奨励」のポスターも見かけなかった。駐在所の中には掲示されていたかもしれないが,電柱などには貼ってなかった。肝心の警察官がヒロシマのニュースに接して「戦争は負けだ」と口に出して言うこの村では,そのようなポスターは意味をなさなかったからだろう。
 この村にとって,戦争とは何人かの男たちが兵役に駆り出されただけのことで,艦砲射撃と機銃掃射が台風のように1回襲ってきたが,それ以上の出来事ではなかったようだ。
 だが,8月15日は旧盆なのに盆踊りはやっていなかった。


追記:
 この文が雑誌に載ってから数年後、神恵内村から20kmぐらい北の神威岬に日本軍のレーダー基地が存在したことを知った。攻撃の目標は、その基地と後背地だったと思われる。そのレーダー塔の残骸の写真も入手できた。

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by convenientF | 2009-08-14 14:30
外が明るくなったので、居間から玄関への階段をまだ自力では上れないエルモを抱え、ディックに「行くぞ」と声を掛けた途端、グラグラっときました。震度2まではまったく感じない建物なので驚きました。階段横の本棚が階段に寄りかかっています。

ゴムか何かの免震構造のため、地震がおさまってもしばらくはユラユラ揺れています。

静まったところで「どうする?」とディックを振り返ると怯えた目をしています。仕方がないのでエルモにとっては初めての単独散歩。

帰ってきてテレビのニュースを見ると、地震の中心は台風の大雨が襲来中の静岡周辺。

今年は春から自然災害が続いています。こんなことは記憶にありません。
間違いなく、何かの祟りです。

郵政民営化の祟り?
労働者派遣規制緩和の祟り?
後期高齢者医療制度の祟り?
漢字読み違えの祟り?
故人献金の祟り?

とにかく誰かが大自然を怒らせてしまったのです。


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by convenientF | 2009-08-11 15:46
少しメンバーは替わりましたけど
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そして、こんな物を頂きました。
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by convenientF | 2009-08-09 15:31
これは『Computer Report』誌の2002年12月号に掲載された文章の一部を修正したものです。
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 金沢市の瓢箪町国民学校に通っていたのは昭和20年,すなわち敗戦の年の1学期である。沖縄が米軍に占領され,ナチス・ドイツは全面降伏した。日本では毎日都市が爆撃されている。このまま都会にいては危ないと思って不思議はない。
 しかし,当時六大都市に次ぐ大都市の1つだった金沢には爆撃機も戦闘機も飛んでこない。たまに偵察機がやってきてビラをまいていく。偵察機が飛んでくると,兵隊,警官,そして国民服を着た町内会の役員みたいな小父さんたちが出てきてビラをかき集めて持っていってしまう。一度拾ったことがあるが読む前にひったくられた。
 いくら平和な金沢とはいえ,大阪と同様,スパイへの注意を促し,怪しい人についての通報を呼びかけるポスターは街中に貼ってあった。現に大阪ではスパイの疑いで特高警察に連れて行かれた人の噂を聞いたことがあるし,それで「特高警察」という言葉を覚えた。
 しかし金沢の街でビラを回収していた小父さんたちは,誰一人,ビラに書かれていたことを家族知人に漏らさなかっただろうか。
 ちょうどこの頃,金沢高等工業学校(現金沢大学工学部)から学徒動員され,通信兵として富山県にあった通信基地で米軍からの日本国民向け短波放送の受信に従事していたという理科の先生が中学にいた。それらの通信兵は,誰一人,耳にした内容を家族知人に漏らさなかっただろうか。
 瓢箪町国民学校の1学期の間中,誰一人疎開して行かなかったのはなぜなのか。金沢からどこかへ疎開するという話はまったく聞こえてこなかったのはなぜなのか。
 インターネットで検索したら「市街地空爆目標都市」という表が見つかった。出典は『第20航空軍の戦略爆撃目標』で原典は『The 20th Air Force, Attacks on small urban area, July 1945』となっている。
 この表によると,京都などとともに金沢も爆撃目標から外されている。偵察機からまかれたビラ,通信兵が聞いていた短波放送の内容はこれだったのだ。そして金沢の人々は知っていた。大阪,神戸が繰り返し襲われているのに京都には機銃掃射すら行われていない。だから金沢も襲われない。アメリカは嘘をついていない。

当時金沢には母の長姉,2番目の兄,そして妹が住んでいたが,既に看護婦学校にいた長姉の娘,師範学校にいた長姉の息子も加わって,父に再疎開を断念させるべく,全員が繰り返し泣いて説得に当たっていた。皆情報を持っていたのだと思う。その光景は痛烈に覚えている。
しかし父の抵抗は固かった。そして毎日郵便局か電話局へ出かけていった。「浅田屋」がある十間町の坂を登り終わったところに放送局と並んで中央郵便局か電話局があったのだが,郵便局だったか電話局だったかは覚えていない。
自分の妹が嫁いでいる岩内町の大きな店や幼なじみの神恵内郵便局の局長に電話していたのだろう。話がそれるが,私が社会人になった当時でさえ,東京本社から大阪支店への電話は,申し込んだ日の間につながるとは限らなかったのである。まして戦争末期とあっては,金沢から北海道岩内郡岩内町や古宇郡神恵内村には1日や二日ではつながらない。だからつながるまで日参して待たなければならなかったと思われる。
あれだけの反対に遭いながらも父が神恵内行きにこだわった理由は何だったのだろう。30歳そこそこで車付きの役員に抜擢されたのに戦争のお陰で会社が廃業に追い込まれ,ならば,と軍を相手の商売を始めたら敗北に次ぐ敗北で軍は物資を買えなくなってまたも廃業。満40歳。喪失感は大きかったと思う。だがもう一つ大きな疑問が未だに残っている。彼はどうやって兵役を免れたのか。この点に関しては本人も,その妻も何も言わずに世を去ってしまった。
 そして7月,福井市の爆撃で真っ赤に染まった南の夜空を見て父の決心は動かぬものになった。

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(右の岩山の向こうが神恵内)

 翌日には父はいろいろな手続きに走り回り,母は泣きながら家財道具の整理を始めた。母とすれば,会ったこともない姑との同居生活がいきなり始まる。生まれてこの方,常に自分の親族が身近にいたが,これから向かうところには夫の親族しかいないのだ。不安と恐怖で胸が潰れる思いだったと思う。
 金沢駅には親戚全員に加えて「浅田屋」の主人も見送りにきていたと記憶する。皆食べ物を持ってきてくれていた。特に「浅田屋」が用意してくれたお弁当は,当時としては大変な代物だったはずだ。
 敗戦の数週間前なのに青森までの直通列車が走っていたようだ。乗り換えた覚えはない。それとも直江津,新津あたりで乗り換えたのだろうか。何時間かかったかも覚えていない。
 大阪から逃げ出したときほど列車は混んでおらず,妹はまだ小さかったので4人席のボックスに家族全員が座ることができた。しかし真夏である。窓を開けざるを得ない。機関車の煙が入ってくる。
 煙の中で「浅田屋」の弁当を開いた。その時の周囲の視線は決して忘れられない。ほとんどの人はサツマイモ,コッペパン,乾パンしか持っていなかったのである。視線に負けたのだろう。母は弁当箱を持って車内を回り,料理を分けていた。我々は白米のおにぎりやサンドイッチも持っていたので,母の車内回りは何度も繰り返されることになる。
 青森に着いたのは翌日の午後か夕方だったはずだ。青函連絡船に乗った時は暗かったからである。連絡船には何十回も乗っている父が「もうじきや」と言った途端に船内が真っ暗になった。船員が回ってきて,潜水艦が近くにいるので静かにしていてくれという。半島の陰にでも隠れたらしい。怖かった。函館に着いたときは明るくなっていた。
 倶知安で函館本線を降り,岩内線(いまは廃線)の列車を待っていると見知らぬ人が父に話しかけてきた。父の表情が見る間に変わった。数日前に岩内から積丹半島にかけて艦砲射撃と機銃掃射を受けていたのである。
 あの平和な金沢から2日も掛けてわざわざ戦場にやってきたわけだ。



 大阪での爆撃の跡のような光景を予想していたが,岩内の町はガラスの代わりに板が打ち付けられている程度で,あまり被害は受けた様子はなかった。むしろ普通の住宅も商店も,建物の形自体が大阪や金沢とはまるで違っていて,神戸の洋館街に似ていたことの方に強い印象を受けた。
叔母の嫁ぎ先は笠井商店という大きな瀬戸物屋で電気製品も商っていた。建物には機銃の弾が何発か当たった程度だが商品は相当破壊されたようだった。父には妹が二人いたのだが,彼女たちの名前はどうにも思い出せない。父の除籍謄本でも見ればわかるだろうがその謄本が見当たらない。
この叔母の夫が笠井商店の当主である。父の弟、猷三が先に笠井商店の丁稚に入っている。そして笠井の次女,当主の妹と結婚して番頭になっていたのだがその時は出征していた。
取りあえず笠井商店に泊まることになったが,食事は魚介類,野菜とジャガイモだけだった。ご飯はない。代用醤油なるものに初めて出会ったのもこの時である。笠井ほどのご大家でもそんな食料しか手に入らなかったのだ。さらに頻繁に停電が起きた。ラジオを聞くときは電灯を消すことになっていた。電圧が低く、ラジオの電源を入れると電灯が消え、電灯をつけるとラジオが聞こえないからである。
到着の翌朝,父は笠井の従業員一人を伴って神恵内に向かった。当時,岩内と神恵内の間は焼き玉エンジンで動く15トンぐらいの船が1日2往復しているだけで陸路の交通機関はない。途中,いま原発のある泊村と盃という小さな港に寄って片道2時間。
夕方,父は暗い表情で帰ってきて母と別室に入った。母の泣き声だけが聞こえていた。子供たちに夕食を取らせた後,笠井夫婦,猷三夫人も入っていった。神恵内の被害が思ったより大きかったのだ。
そのまま岩内に何日か滞在したと記憶している。おそらく神恵内の家を修理させる一方,金沢から発送した荷物が岩内に着くのを待っていたのだろう。当時,陸路の長距離貨物輸送手段は鉄道しかない。
「ヒロシマ」から逆算すると,我々が神恵内に入ったのは8月の3日か4日だったようだ。父が船をチャーターして岩内から送ったらしく荷物は先に届いていて,それを整理している最中に「新型爆弾」のニュースを聞いたからである。
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8月15日に続きを掲載します。
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by convenientF | 2009-08-01 04:03