日本の裁判員制度の採用が決定されたのが2004年。

その3年後、2007年にアメリカで「CITIZEN VERDICT」(邦題:逆転法廷)という映画が作成されました。

殺人現場から犯人とされた人物の裁判から死刑執行までをテレビ中継し、節目節目で追加視聴料を請求するのです。

PAY-PER-VIEWの極致です。

死刑執行後、番組制作に関わった連中は、当然分け前を要求します。
ただし、死刑になった犯人役はゼロ。

勘ぐれば、日本のテレビ業界に対する警告、ともとれますな。
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by convenientF | 2008-08-31 17:50
7年間こき使ったデスクトップのマシン、だんだんディスクの動きが悪くなって8月25日(月)、ついにWindowsがスタートしなくなりました。動かなくなったのは寿命だと思って諦めればいいのですが、このところ無精して単行本3冊と雑誌原稿1本を入れっぱなし。
急遽「救急員」を呼び、必要かもしれないデータを妻のマシンに全部移しました。INSプロバイダーは私が使っていたのと違い、当然私のemailアドレスも違うので関係先にBSS同報メールで通知しまた。
この後、私が使ってきたINSプロバイダーを解約しなければならないのですが、このプロバイダーは民間企業ではなく市役所なので「精神病院入院経験者」の「解約申し込み」を受けてくれるかどうか(^^;)。

先日、警察に関する解説型報道に「取調室での尋問の録画録音を検討する」との1節を目にし、ようやく「それでもボクはやってない」を借りてきて観ました。
今頃になって、と思われるでしょうが、「痴漢冤罪」には飽き飽きし、嫌気がさしていたのです。いつか、どこかのブログで書きましたが、朝、通勤電車でカモになりそうな男を捜して自分から近づき、自分から騒ぎ立て、駅で降ろして「見逃す代わりに…」と有り金巻き上げて海外旅行の資金にしていると、私の部下の女子社員たちが懇親会で私に直接自慢していたからです。
映画でも、警察が呼んだ当番弁護士はいきなり示談を持ちかけました。「痴漢事件、「セクハラ事件、」そして「パワハラ事件」のほとんどは「示談目立て」に仕組まれる、と顧問弁護士に教わったことがあります。

さて、古い映画で見る取調室では尋問する警官のほかにもう一人警官がいて、部屋の隅で尋問する警官や被疑者、証人に背を向け、手で書き物をしています。しかし「それでもボクはやってない」では速記タイプやのとパソコンが使われています。
いずれの場合も尋問の応答を記録しているわけではなく、尋問の内容から「供述調書」を作成するのです。これこそが現代に日本警察の尋問です。外国映画で目にする警察の尋問では、少なくとも録音機が使われています。発展途上国でも録音機です。取調官と被疑者や証人の発言を録音しています。その録音がそのまま法廷に提出されるようです。使われている録音機が圧倒的に日本製であるのを見ると嬉しくなります。

ところが、その録音機を作っている日本での取り調べでは録音機が使われないのです。主として日本が開発したコンピューター型のレジで間接税を品目別に徴収しようとしないのと同じ景色です。

刑事裁判に詳しい人たちの話によると、法廷に提出される証拠や資料については検察と判事があらかじめ調整するそうです。その手順がそのまま残されるのであれば、たとえ尋問、自白、証言が録音されても、法廷に提出されるのは「調整済み」のものになるのでしょうね。

話題の「裁判員制度」が実施されても、裁判員たちに提示されるのは「調整済み」の自白や証言だけ。「それでもボクはやってない」では、最初の担当裁判長が無罪に傾きかけると急遽裁判長が代わりました。

万一「裁判員」が無罪にしても高等裁判所に上告されば裁判員の結論は簡単にひっくり返る?

かくして録音録画が導入されても「有罪率99.9%」という日本の刑事裁判の輝かしい伝統はビクともしないでしょう。
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by convenientF | 2008-08-28 13:50
偶々続いてしまうが、「梟通信~ホンの戯れ言」からまた引用する。

今のフリーターは”国や組織にたよることなく”なんていう優雅なものではなくて”国や組織にたよりたくともたよれなくなって”、”手に職つける余裕などなくなって””自分の力で生きていくのも難しくなって”いる人が増えているってことは分からないんだろうな。

『人生読本 落語版』(矢野誠一)の中の以下の記述に対する「梟通信~ホンの戯れ言」管理者のsaheizi-inokoriさんのご感想だ。

国や組織にたよることなく、手に職つけて、自分の力で生きていくひとの増えていくのが悪いことだと、どうしても私には思えないのだ。


矢野誠一という演芸演劇評論家は私と同年輩だが、確かに私の同じ年頃の連中には現在の非正規労働、所得格差、ワーキングプアなどの問題を、すべて「無気力」「怠惰」「無知」といった本人たち個人のせいにしてしまう者が結構いる。ところが、それらの「厳格な」高齢者たちの生活には見事な共通点がある。国内外での預金証券などの金融資産の保有高が少なくとも3億円ぐらいなのだ。
つまり、

国や組織にたよることなく、手に職つける必要もない

身分なのである。利子配当だけで日常生活を賄い、外国旅行なども自由に楽しんでいる。私は、長年、こうした人々を「富裕層」と呼んでいたが、近年の行政の発言やマスメディアの報道では「年収1,000万以上」、社会保障関連になると「年収400万以上」が「金持ち」と呼ばれているので、少なくとも日本社会については「富裕層」という言葉も「金持ち」という言葉も使わないことにした。
ローンが何千万残っていようが年収が1,000万なら「金持ち」と呼ばれ、苛斂誅求の的にされる。家計の貸借対照表では大赤字でも、「富裕」とは正反対な状況でも、損益計算書だけに基づいて「金持ち」に分類される。このように日本語の「金持ち」は特別な意味を持つように見えるが、どんな「日本語→外国語」の辞書を引いても「富裕な人」と「金持ち」は同じ言葉になる。これでは混乱する。だから私は「富裕層」という言葉を使わないことにした。
しかし「富裕層」という言葉を使わないのは私の勝手であって、世間では広く使われている。つまり世間はそれだけ混乱しやすいわけだ。
たとえばメリルリンチは「金融資産保有高100万ドル」を富裕層と定義し、世界の富裕層の人数を毎年発表している。負債は考慮していないようだ。
100万ドルというと1億円強である。話を単純にするため1億円を年1割の利回りで運用すると乱暴に仮定すると1,000万円の所得が得られることになる。この水準の家計は、負債の有無にかかわらず、近年の行政の発言やマスメディアの報道では「お金持ち」に分類される。しかし、この収入で「金持ち」でない人がイメージする「金持ち」の生活を送れるだろうか。「セレブ」と呼べる生活を送れるだろうか。今の日本の物価では遠く及ぶまい。
だから私は金融資産の純保有高(債務相殺後残高)3億円を目安にしている。利子配当だけで日常生活を賄い、外国旅行なども自由に楽しめるかどうかの境界線である。

そこで先ず問題なのは、この「金融資産純保有高3億円以上」の階層の全所得を税務当局は捕捉できず、従ってこの階層の多くの人が納める所得税、地方税から国民健康保険税、介護保険税などが所得に見合ってないことである。外国、特にタックスヘブン(税金避難地)と呼ばれる土地での預金その他の投資から得られる収入には、よほど特殊な事情が発生しない限り税金がかからないのだ。収入のほとんどが捕捉される給与生活者や印税稿料生活者に比べて極めて有利な境遇にあるのである。

次に指摘したい問題は、「金融資産純保有高3億円以上」の階層が保有する資産は、ほとんどの場合、相続によって得られていることである。相続自体が悪いのではなく、相続した結果「汗水垂らして働く」必要がなくなることが問題なのであり、たとえ何らかの職に就いたとしても名誉職か道楽仕事にすぎないことである。名誉職か道楽仕事が悪いのではなく、そのような生活では

”国や組織にたよることなく”なんていう優雅なものではなくて
”国や組織にたよりたくともたよれなくなって”、
”手に職つける余裕などなくなって”
”自分の力で生きていくのも難しくなって”


いる人々が見えなくなることである。報道では読んだり聞いたりはしているが実像を見ていないのである。それらの人々は恐竜と同程度に遠い存在なのである。そして「金融資産純保有高3億円以上」の階層の連中は、見たこともないのに恐竜の生き方を非難しているのである。

さらに悪いことに、この階層の連中は、「汗水垂らして働く」必要がないから暇に任せていろいろ発言する。ただし、現在享受している特権を失いたくないから「愛国者」、あるいは「現政権支持派」としての発言になる。そして政治家、官僚、マスメディアはこの連中のご機嫌を取り結んでいれば有形無形の利得にあずかれるから連中の発言を肯定し、その方向に社会を進めていく。

かくして、非正規労働、所得格差、ワーキングプアなどの問題は「最長好景気」にあっても改善されるどころか一層深刻化した。そして今後、景気が停滞から下降に向かう中で社会の地滑りをさらに加速させて行くであろう。

全面的な山崩れが起きる前に世を去りたいと、私は願っている。
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by convenientF | 2008-08-20 15:20
「梟通信~ホンの戯れ言」で既に言及されているが、『文藝春秋』(9月特別号)に「医療費削減の戦犯は誰だ」という記事がある。1997年に大蔵省に入省したが2006年7月に32歳で財務省を辞めた元キャリア官僚である。「村上正泰」という人だ。
「医療費削減」という政策自体は、「梟通信~ホンの戯れ言」で管理者のsaheizi-inokoriさんがお書きになっているように“別に事新しいニュース”ではないのだが、たとえば療養病床(長期療養の必要な患者が入院するベッド)の6割、23万床の削減によって、主として高齢者が現実に病院から追い出され始めた今、あらためて「医療費削減は何のためか」を見直さなければいけないと私は思う。
日本の場合、「療養病床」への入院のほとんどは「社会的入院」である。何らかの理由で自宅で介護を受けられないから入院するケースである。そういう状況にある人々は、ヨーロッパなどでは「福祉施設」に入るのだが日本ではそのような施設は極端に不足している。「福祉施設」の必要性に関する議論すら行われてこなかったのだから当然だ。
しかし、小泉竹中政権は軍事独裁政権並みの強権を振るって医療費削減を決めた。代わりになる収容手段を用意しないまま「療養病床」削減、入院期間短縮を断行したのだ。入院期間を短縮できない医療機関への診療報酬はカットされる。医療機関としては死活問題になってくるから委細構わず患者を病院から出してしまう。入院時に患者側が提出した書類に「保証人」あるいは「緊急連絡先」としてその氏名や連絡方法が記入された人を呼び出し、患者を無理矢理連れて行かせる。
私自身、5月3日に「偉大なる福祉国家」というタイトルで実例を紹介したが、同様のケースが毎日のように眼から耳から入ってくる。身体のどこかを病んでいる人たちが、住宅に忍び込んだ野良猫のように叩き出されている。ずっと通院している大病院で、先週も「叩き出し」の現場を目撃した。心を病んでいる患者とその家族らしい人々が泣き叫ぶが容赦なくカネを取られ、玄関から押し出されて行った。
医療費を払えなくなった患者を車に乗せ、公園や繁華街へ連れて行って降ろして放置する場面はアメリカ映画で時々目にする。が、アメリカの話、映画の一場面で済ませられるのはいつまでだろうか。
この筆者が官僚人生に失望した具体的なきっかけは下記の記述に現れているように思える。

 医療をはじめとする社会保障は、単なる負担ではない。(中略)長期的な社会の安定性を保障するものなのだ。企業活動も、個人の生活も、こうした安定性の上にはじめて成り立っている。(中略)社会保障費を単なる負担と考え、削減の対象としてのみ捉える立場からは、こうした点がすっぽり抜け落ちてしまっている。


 この部分で小泉竹中を真正面から攻撃しているのである。こういう愚かな連中が政権の座に着くのを黙って受け入れ、彼らに従わなければならない官吏という職業に嫌悪感を抱いたに違いない。
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by convenientF | 2008-08-15 15:41
8月9日(土)夜の「居住人&居住犬」BBQパーティのスナップ。

先ずウチの連中:最長老と大親分、てとこですか
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一番元気な連中が集まって悪巧み?

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大親分はボストンテリアの「ウメ姐さん」にご執心だけど

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翌日は皆くたばっていました。
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by convenientF | 2008-08-11 16:08
朝鮮戦争当時、トルーマン大統領によって国連軍総司令官の任を解かれたダグラス・マッカーサーの名台詞、

"Old soldiers never die; they just fade away."
(老兵は死なず、ただ消え去るのみ)

のもじりを紹介します。リズミカルで好きなんですよ。

● Old teachers never die; they just grade away.
老教師は死なず、ただ採点しながら去っていくのみ

● Old soldiers never die; just young ones.
老兵は死なず、[死ぬのは] 若い兵士のみ

● Old bureaucrats never die, they just waste away.
老官僚は死なず、せっせと無駄遣いしながら去って行くだけ

● Old doctors never die-they just lose their patience.
老医師は死なず、ただ忍耐力を失うのみ
lose one's patience(我慢できなくなる)と lose one's patients(患者を失う)の引っ掛け

既に100ぐらい創られているそうですが、もっともっと考えましょうよ。
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by convenientF | 2008-08-11 11:22
先週、妻の妹が高名な大学病院で腸ガンの手術を受けました。
8年前、彼女はその病院で心臓弁をチタンに替える手術を受けています。1級障害者です。
そして今は「鬱で」精神科から抗うつ剤を投与されてうぃます。
今回の手術に当たり、義妹は現在服用している薬剤のサンプルと担当医からのレターを全部提出しました。

しかし、手術当日、その情報は麻酔医に伝わっていませんでした。麻酔薬投入後激しい痙攣。でも手術医はその痙攣に気付かす手術を行いました。
昨日何とか退院しましたが、慰謝料請求の訴訟を私は考えています。アメリカは訴訟過剰かもしれませんが、日本ではフツーの堅気の市民からの法的挑戦が少なすぎるのではないでしょうか。
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by convenientF | 2008-08-11 10:48
親殺し子殺し、バラバラ殺人、通り魔あるいは無差別殺人など、現行の日本の司法制度では「犯行時、犯人が心神耗弱もしくは心神喪失の場合は罪に問わないという刑法第三十九条の規定」が適用されそうな事件がこのところ増えているように見える。統計によると凶悪犯罪全体としては減っているそうなので、「刑法三十九条」が適用されそうなケースだけが増えているのか。

「刑法三十九条」をテーマにした作品としては永井泰宇原作、森田芳光監督の映画「39【 刑法第三十九条 】」(1999)が有名だ。

モチーフとなる「刑法第三十九条」とは、心神喪失者を罰する事はなく心身耗弱者の行為に対しては軽減を認めると云う刑法。(中略)ここ日本での現実と云えば、殺人と云う刑事事件の案件の中でも、精神鑑定の対象となった案件では、その「8割以上」が起訴すらされず、場合によっては措置入院すらないと云う理不尽千万なもの。「一、心神喪失者ノ行為ハ之ヲ罰セス」「一、心身耗弱者ノ行為ハ其刑ヲ軽減ス」と云う僅か二行から成る「刑法第三十九条」だが、そんな理不尽な現状に一石を投じる物語は、心神喪失者等を保護すると云う刑法の本質へ言及するものではなく、その網の目を掻い潜るべく実行される被疑者の狂言にも手招くばかりの司法の現状に一石を投じるというもの。 (http://www.fnosta.com/45number/39.html)

2001年の「池田小学校事件」の犯人「宅間守」は逮捕当初、精神障害者を装った言動を取っていたが、これは本人が複数回の刑事犯罪において、自らの精神科通院歴を楯に不起訴処分(あるいは保護観察処分)という比較的軽い処分を経験したという経歴と無関係ではないはずだ。つまり映画「39」が提示した「被疑者の狂言」が試みられたわけである。

ただ、この映画のストーリーは「心理ドラマ」「推理ドラマ」を相当見慣れた人でないとストーリーが飲み込めない作りになっている。だから肝心の主張を受け取った観客はどれだけいたか、私は疑問に思っている。

むしろ「http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50776304.html」の下記の記述の方がストレートで理解しやすいのではないだろうか。「小飼 弾」という人のブログである。

事件が起きた時に、社会はそれに対する対応を求められる。その対応は、大まかに分けて次の三つとなるだろう。

1.被害者の救済
2.再発の防止
3.加害者の「修復」

残念ながら、日本の刑法システムは、これらの目的がいずれも曖昧で、1.に至ってはほとんど何もなされていない。刑法三十九条を抜きにしても不備が大きいのに、刑法三十九条の適用は残った2.および3.をも「さじなげ」してしまう。そこに問題がある。
2003年成立の「心神喪失者医療観察法」により(池田小学校事件への反省から制定?)辛うじて3.が強化されたのみで、残りに関しては依然棚上げ状態だ。


そして下記の問題を提起しているが、このブログ管理者は「日垣隆」に近いようなので、その点を念頭に置いておく必要はあるだろう。

事件に対して、社会が何もしない、となったら何が起きるか?
自分たちでなんとかしよう、ということになる。要するに私刑ということだ。
刑事罰を免れた加害者を社会的に制裁したり(これは村八分という形で日本各地で今も見られる)、それがもっと進めば心神喪失者を「未然に始末しておく」とか。そちらの方がよほど怖くはないか。


何だかアメリカ映画を思わせる筋立てで面白そうな話だ。そう。「面白そう」といって差し障りがあるとは思えない。そのレベルだ。

しかし、この記事には傾聴に値する批判あるいは反論のコメントもある。

日本では「刑法三十九条」が万能の免罪符のように扱われていて、何か異常な事件があると必ずと言っていいほど弁護側は「心神喪失及び心神耗弱」による減刑を訴えてきますよね。それがいかに可能性が低くても。そうすると裁判の過程で精神鑑定などに時間や予算が割かれることになり本質を見過ごしたまま裁判が進む事態なども生じてしまっていると思います。
そもそも最近の脳科学や精神医学の研究からすると「責任能力」という概念自体が非科学的なのではないかと言う議論もあったはずです。日本の法曹関係者は法律の檻に閉じこもっていないで広く一般や他の分野の専門家の声に耳を傾けるべきです。


患者としての私に担当医として接している人たちは別として、知人友人に過ぎない精神科医や脳科学専門家は「親殺し子殺し、バラバラ殺人、通り魔あるいは無差別殺人」の実行時において、その犯人は何らかの「精神障害」の状態にあるに違いないという。したがって従来の司法の論理では「責任能力」は問えないことになる。
だが、犯行時点から相当な期間を経た裁判の時点で犯行時の犯人の精神の状態を遡って確認できるのか。精神科医や脳科学専門家は否定する。仮に犯行の直前に鑑定し得たとしても、現代の精神科的診断、あるいは脳科学分析の結論は主観的になる。鑑定者によって異なるのを避けられない。法廷に持ち出された段階でいかに努力しても主観的な推定以外の結果は出てこないという。

したがって「刑法三十九条」は社会においていかなる機能を果たしているのか、非常に疑わしいことになる。人間に対して正義を行う上で役に立っていないことになる。正確に適用することが不可能なのだ。

精神、あるいは心の動きは脳という臓器の化学的物理的活動なのだが、肉体の他の部分と異なり、血液検査のような化学分析も写真撮影のような物理的測定も応用できない。つまり物的証拠は得られないのである。客観性が得られないのである。だから判断は裁判官の精神または心の動きに委ねられることになる。したがって、最終的に宣告される判決には客観的な正当性はないのである。その判決にいたった裁判官が「精神障害」の状態にないかどうか、「責任能力」があるかどうかもわからず仕舞いになるのである。

この現実に思い至ると、若者ならずとも「どうでもいいや」という気分になる。
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by convenientF | 2008-08-08 15:37